プロジェクトヘイルメアリー キセノンは普通に化学反応する
この記事の要約:主人公はキセノン化合物の存在に驚いているけど、キセノン化合物は割と普通に存在する。ただしキセノナイトみたいな安定でカチカチな材料にはならないと思うから、その部分に驚いてるのは別におかしくない
プロジェクトヘイルメアリーの映画が公開されましたね!
映画のほうはまだ見てないんですけど、小説を読んでちょっと違和感があったのが、キセノン化合物ですよね。
キセノン化合物はぜんぜん存在する
主人公は「貴ガスであるところのキセノンがカチカチの固体になるなんておかしい」みたいなことを言っています。確かにキセノンがカチカチの固体になるのは驚くべきことですし、エリディアンの高度な技術力を証明する設定としてよくできていると思います。
でも主人公の驚き方はさすがにおかしい!
ドサッとスツールにすわりこんでシリンダーをじっと見る。なんて奇妙な人工物だ。なにかと反応する貴ガスをなんと呼んだらいいんだ? 下賤ガスとか?
アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (p.219). 株式会社 早川書房. Kindle 版.
このあたりのシーンで先生は何に驚いているかというと、次の二つに分解できます
①キセノンがなにかと反応して化合物を形成していること
②それがカチカチの固体となっていること
②は確かに驚くべきことですが、①はそんなにびっくりすることでもありません。
化学の勉強をいくらかしたことがある人ならわかってくれると思いますが、キセノン化合物というのは世の中に普通に存在しています。
ウィキペディアに載ってるだけで28種類もあります。ここに載っている化合物の中には単離できていないモノもかなりあるっぽいですが、とにかくキセノン化合物というのはそれくらいには知られているものです。
おれたちの富士フィルム和光純薬からもフッ化キセノン XeF2が試薬として販売されています。おれも学生時代に友人の研究室でフッ化キセノンの実物を見たことがあります。かなり不安定な白い粉で、取扱要注意の試薬でした。
でもカチカチの固体にはならないんじゃないか
とはいえ、ウィキペディアに載っている化合物はどれも酸化物とかフッ化物ばかりで、どれも不安定ですし、普通に考えて作中で描写されてるキセノナイトのような物性を示すキセノン化合物は存在しないんじゃないかと思います(SFのアイテムなので当然ですけど)。
映画でどこまで説明されているのかは見てないのでわかりませんが、主人公が使っていた元素の検出器には軽元素を検出できないという設定があります(実際のXRFもそうなので、妙にリアリティのある設定です)。そういうわけで、キセノナイトにはキセノン以外の軽元素が大量に含まれてる可能性はあります。
おれは特殊なフラーレン的な骨格(炭素でできた中空のサッカーボール)とか特殊なナノチューブ的な骨格(炭素でできたストロー)に希ガス状態のキセノンを内包させたような超分子をどうにかして高分子化したような素材で作られてるんじゃないかと勝手に思うことで自分を納得させています。超分子ってどんな性質になるかイマイチわからないですもんね~。未知数ゆえにSF設定にもってくるにはもってこいなのが超分子です。
貴ガスとはなにか

キセノンのような、周期表の右端にある元素のことを貴ガスと言います。自然界には、ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドンの6種類が存在します。
基本的にすべての原子は何らかの原子と結合していないと安定に存在できないわけですが、貴ガスという連中だけは単騎で存在できるレアキャラなんですよね。
そういうわけで、貴ガスはほかの元素と基本的に結合をつくらないというのが高校化学レベルでは常識です。そういう性質にフォーカスして、高貴なガスということで貴ガス(noble gas)と呼ばれています。主人公はそこをもじって下賤ガスと言っているわけですね。
昔は希(まれ)なガスという意味で「希ガス」と呼ばれていて、そういうふうに教わった人のほうが世の中にはずっと多いんじゃないかと思います。ところがプロジェクトヘイルメアリーは最近の小説なので「貴ガス」表記を採用しています。
希ガス(rare gas)と呼ばれなくなった理由は、例えばアルゴンなんかは空気中に1パーセント程も含まれていて、一部の貴ガスは言うほど希少でもないことに人々が気づいたからです。
pH(ピーエイチ)のことをペーハーと呼ぶと老人扱いされるのと同じで、老人のみなさまは表記に注意したほうがいいでしょう。
貴ガス化合物も普通に存在する
大昔は「貴ガスは何とも反応しない」みたいに教えられていましたけど、実はキセノン以外でも貴ガス化合物は割と存在します。
キセノンやクリプトンのような重い(周期表の下のほうに登場する)貴ガス元素は特に化合物を作りやすいわけですが、それ以外の貴ガスも割と普通に化合物を形成します。
ただしその多くは単純な酸化物とかフッ化物で、作中で語られるようなユニークな性質は示さないどころか、多くはきわめて不安定です。
この記事の内容は重箱の隅をつつくようなマニアックな指摘に聞こえるかもしれませんが、実のところ、貴ガス化合物の存在は、ちょっと気の利いた大学化学の最近の教科書だったら(もしかしたら高校化学でも)、普通に記述されているくらいには知られている存在です。
主人公は中学理科の先生なので、生徒にそこまで教えるかどうかは別として流石に貴ガス化合物の存在くらいは知っていてほしいものです。でも先生はバイオ畑の人ですし、おれよりだいぶ年上なので知らなくてもギリ無理はない気もします。というのも、貴ガス化合物の発見は1962年と割と最近で、教科書に記述されるのはもっと後のことだからです。
さらに言うと、原作の作者はIT畑の人なので、なおさら知らないのは無理ないかなと思います。
そういうわけで主人公が貴ガス化合物の存在自体に驚いて「下賤ガス」とかいう謎のワードまで発明して皮肉ってしまっているのは、シンプルに作者が貴ガス化合物の存在を知らないために起きてしまった不幸な事故なんだと思います。個人的にはだいぶ引っかかる描写ですけど、ストーリーに影響のあるような間違いではないですし、全体的には超おもしろい小説である事実に揺らぎはありません。
ちなみにおれは貴ガスに特に詳しいわけではないので、細部が間違ってたらすみません。致命的な間違いはないとは思っていますが、どこかおかしければコメントで指摘ください。我こそは貴ガスの専門家です、という人がいたらぜひ同じような記事を書いてネットの海に放流してください。お待ちしてます。